2020年08月12日

映画から思い出した中国の友人のこと

昨今、アメリカとの確執や、香港問題で
注目されている中国。

だからと言うワケじゃないけれど、
昨日、暑い中、8時間半という長さの
「死霊魂」という中国人監督ワン・ビンが
撮った映画を少し早起きして観に行った。

タイトルだけ聞くと、ホラーかと
思う人も多いだろうけれど、
(それほど長時間のホラーとか怖すぎ。笑)

1950年代後半に、中国共産党から
「自由な発言を歓迎」という「百家争鳴」という
キャンペーンがあった。
国や社会の少し気になることを
言っただけで、「右派」と呼ばれ、
収容所に送られた55万人。
この映画は、その収容所から
生存できた10%ほどの人の証言を
集め、また現地が今で亡くなった多くの
人骨などを追ったドキュメンタリー映画。
本当に凄い映画。

国家とは、思想とは、死生観とは、
そして尊厳とはなんだろうか。
そんなことを深く考えさせられた
本当に素晴らしい実録だったけれど、
この映画を観ながら、僕は
もう何十年も前に出会い、今は
オーストラリアで暮らしている
一人の中国人の友人のことを思い出した。


僕とほぼ同い年のチョウは、
中国上海からそれほど遠くない都市で
それなりの裕福な家庭で生まれ育った。
彼が多感な時期を過ごした少年時代から
始まった文化大革命。

この文革の中、彼のお父さんが
ロシア語を勉強していたことが理由で、
彼は中学、高校時代、田舎の村に送られた。

いわゆる、エリート層を農家に入れて
行われた「再教育」だ。

当時の中国でも、かなり良い暮らしをしていた
彼がいきなり牛小屋で寝ることになり、
目が覚めたら真横に牛の顔があったのが
ものすごい恐怖だったと言っていた。

彼はその数年の間で、完璧に毛沢東思想を受け、
共産党員となり、配属されたのが
上海のテレビ局だった。

ルックスも良く、身体もしっかりしているチョウは
そこで最初、俳優をやったそうだ。
毛沢東が死去して、文革が終わった彼が
二十歳を越えた頃、ニュースキャスターへと転身。
彼は多くの人に知られた顔になっていたらしい。

しかし、彼はその局に入ったおかげで、
西側諸国のあまりにも自由な生活、雰囲気を知り、
単身で日本に亡命することにした。

まだ少数の中国人しか来日出来なかった
80年代初頭、上海空港から飛行機が出た瞬間、
彼は泣きに泣いたらしいけれど、
それは故郷を離れる辛さではなく、
共産主義との別れという歓喜の涙だったと言う。

まだ2丁目に出たばかりの僕が
チョウと出会ったのは、当時、
昼間は八百屋を手伝っている彼が
夜、バイトをしていたゲイバーだった。

彼の運命は、このあとまた大きく動いていくのだが、
長くなりそうなので、この続きはまた明日。


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22時までです。お盆営業で、お待ちしております。

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posted by みつあき at 12:26| Comment(0) | 友情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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