2017年03月10日

怒る、ということ

うちの店に来てくれる僕の古い友人たちが、
たまに僕に対してのスタッフの
フランクな態度やタメ口や物言い、
そして僕がめったやたらに怒らないことに
「ねえ、舐められたりしてない?」と
言ってくれたりする。

いや、特にそれを強く感じることはないけれど、
他人にそう思われるのは、
ちょっと情けない気もしないでもない。
でも、僕が声を荒げないことは
今に始まったことではないのだ。


子供の頃、僕の両親は
敬虔なクリスチャンだったこともあり、
人を愛することや、
信じることなどについて語り、
礼儀や徳を積む、ということなどは
厳しく教えてはくれたが、
激しく怒る、ということは決してしなかった。

怒りという強い感情、
それをぶつけるということよりも、
いかにきちんとその気持ちを伝え、
息子や娘に理解してもらおうか、
それを父や母は常に考えていたような気がする。

そんな優しく、穏やかな両親との生活も
中学校まで。
その後、僕は全寮制の高校に入り、
今なら信じられないくらいの暴力や暴言で
モノを言わせる日々を送ることになった。

先生や先輩の怒鳴り声や体罰は、
僕自身を強くはしたかも知れないけれど、
「怒り」「キレる」という行為に対して
嫌悪感や恐怖感を持つようになってしまった。

そんな高校生活も終え、大学、
専門学校を経て、仕事をし出してから、
改めて「厳しい」ということについて
考えるようになった。

「人や自分に厳しい」という事は
怒りをあらわにすることだろうか。

客観的に、街中、もしくはレストランなどで
大声を出して憤っている人を見るとどうだろう。
僕は途端に辛くなる、悲しくなる、残念になる。
もっと、スマートに、気持ちをしっかりと
相手に届けられないのだろうか。

そんな理由もあって、僕はよほどの事がない限り、
怒鳴る、憤る、怒りをあらわに表す、
ということはしない。
それはいつの頃からか、
はっきりと僕の心の中で決めたことでもあった。


もちろん、こんな僕だって、
日々の生活の中で、ムカッとくること、
こんちくしょうと思うことはたまにある。
電車で強く押されたり、
突然、暴言を吐かれた瞬間、
咄嗟に不快感がムクムクと沸き起こる。

ただ、その瞬間、大きく呼吸して考えること。
相手がどんな気持ちであるのか、
冷静に考えてみること。
それは、決して不得意ではない、そう思っている。

怒りが生まれるのは
「自分がバカにされている」「舐められている」
「負けている」「責められている」
「相手はまちがっている」
そんな事を思うからであって、裏を返せば
「自分は絶対、正しいのだ」
そう思い込んでしまうことだ。

基本的に「絶対的な正しさ」というモノなんて何もない。
この世に「絶対」なんて何もないのだ。

もちろん、自分はこうでありたい、
こう生きていきたい、
そういう事柄は山ほどある。
相手とまったく違う意見、生き方だからと言って
その相手をぎゃふんと言わせるように
強い感情をぶつけることなど
まったく何も生み出さない。
そこには不毛な不快感のみが
じくじくと残っていくのだ。


ごくごく、つい最近、僕としては
本当に珍しく大声で怒鳴ってしまった。
それも、自分よりも、
何十歳も若い人間を、だ。

その理由がどうであれ、
嫌悪感を如実に表し、相手を責めた。
その日は自己嫌悪に陥った。

自分の弱さや、奢りを目の当たりにし、
俺は何様なのか、
ということを自問自答した。

相手の話をきちんと聞き、
自分の意見も穏やかに伝え、
その違いを攻めることではなく、
着地点を見つけることが出来なかったのだろうか・

怒鳴るエネルギーがあれば、
もっと賢い方法を生み出すパワーに
変えられたのではないか。

良い年をこいて、
まだまだ尻が青いなあと思う
そんな日もある。

しっかりと自我を保ちながら、
でもそこに溺れ、酔ってしまうことなく、
いつも自分を省みることができるようでいたい。

珍しく酔っ払った(笑)


posted by みつあき at 03:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする