2016年12月20日

ニューヨークでの辛いできごと その2

もうひとつの辛い出来事は、友人のパートナーの葬儀がある
2日前の深夜に、日本から連絡があった。

それは、僕が30年以上前に知り合った同い年の友人、
Oが亡くなったという知らせだった。

その知らせを教えてくれたのは、
僕はまったく知らなかったが、Oが数年前に
少しの間だけ付き合っていた、
という元彼のTさんからだった。

Oは僕が店をオープンしてから
数ヶ月に一度、店に来てくれてはいた。
この春、久しぶりに来てくれた時に、
「体調を壊し、咽頭炎を患った。」と
かすれるような声で話していたが、
「でも、大丈夫」とワインを飲んだりしていたのだ。

それから半年ほど経った先月、
Tさんが突然、店にいらっしゃった。
前にOと一度だけ一緒に来て、
僕とOが古くからの友人であったことを知り、
とにかくその時の現状を伝えたい、ということだった。

実は、Oは昨年の夏ころから喉の状態が悪く、
最初は風邪かと思ったけれど、長引くので
検査をしていくと、咽頭癌と食道癌だと診断されたようだった。
秋から冬にかけて、抗がん剤投与を開始し、
とりあえず手術で完治する可能性がある、
という明るい報告があり、
その頃、うちの店に来てくれたのだそうだった。
もちろん癌であることを僕には伏せて。

ただ、その後、手術の可能性は消滅。
そして熱の高騰や肺炎一歩手前など大変な状態となり、
ガン専門の病院に入ったけれど、
まったく効く薬がない。
別の県にある病院の治療薬があるかもしれない、
そういう話から本人は諦めず、入院している病院に頼み込み、
他県の病院に移った。

しかし、治験薬の副作用により、
食事も水もすべて出来なくなったようだった。
そして、気管切開の必要性も話されたが
本人の希望もあって、
彼が住む地元の病院に移動、
緩和ケアへ移行と決定したのが先月末だった。

Tさんは病院を移動するたびに、
見舞いに行ったが、まったくのクローゼットだったOなので、
家族に会わないように調整するのは
本当に大変だったらしい。

Tさんは、Oに、古くからの友人に伝えたほうがいいんじゃないか、
会える時に会ったほうが良いんじゃないか、と
言ったけれど、体重が70キロ台から30キロ台に落ちており、
こんな身体を見せられない、そう言っていたそうだ。

とりあえず、どうなるかわからない。
ひょっとしたら、このまま最悪の状態になるかも。
でも、本人の強い意志が救ってくれるかもしれない。
そんな話を、Tさんは深夜の店でしてくれたのだった。


それからひと月。メールのやり取りが突然途絶え、
Tさんは病院に向かった。
Oの病室はもぬけの空で、その日の早朝、
彼は逝ってしまったとのことだった。


まだ20代、この世界のことをまだほとんどわからなかった僕は
同い年のOと意気投合、よく一緒に飲んで楽しい日を送った。

当時は僕自身もクローゼットな日々を送っていたが、
国家公務員という特殊な仕事であった彼は、
あらゆるシーンでひた隠しにしていた。

そんな彼と、もう一人の友人、
そして当時僕が付き合っていた彼氏と
4人で八丈島に行ったことがあった。

まだ若かった僕たちは、飲みまくり、
海で泳ぎまくり、騒ぎに騒いだ。
サーフィンをやっていた、という海育ちの
Oはその厚い胸板を誇示することもなかったけれど、
当時、1十分に魅力的な身体だった。
その時の多くの写真は僕の手元にあり、
一度、彼に見せようと店に持って来ていたこともあった。
そんなからが
「友人には元気な身体を見せたい。
だから、それまでは内緒にしておいて。
絶対、治ってみせる。」
と言っていたのは、ちょっとわかる気がする。


食べられないストレスから、治った時は
あれが食べたい、これがほしい、
お酒が飲みたい、ハッテン場にも行きたいと
時には冗談めかしたように
Tさんにメールをしていたようだ。

昔付き合ったとは言え、Tさんの手を触るのも、
顔を触られるのも拒んでいたらしいけれど、
緩和ケアが始まった頃、
「俺はもうダメなのかなあ」そう言いながら、
Tさんの手を強く握るようになったそうだ。

色々な人の思いが、Oにはどう伝わったか
わからないけれど、Oは手厚く見守ってくれた
Tさんには心から感謝しているに違いない。

彼らがどういうふうに出会い、付き合い、
別れたのか、今の僕はそれは知らない。
いつか、Tさんが落ち着いたら、ゆっくりと
話してくれるだろう。

人には出会いと別れがある。
死ぬ、という行為だけでなく、数限りなく
別れがある。

でも、そのひとつ、ひとつにはきっと意味がある。
出会えた喜びと、別れる切なさ、悲しさ。
でも、二人はそれを乗り越えて、
新たな素晴らしい絆を作ったのだと思う。

いつも、新しい男がほしい、なんて言っていたけれど、
しょせん、クローゼットでこの年齢の俺にはもう出来ない、
そんなふうに笑っていたOにとって、
Tさんは大きな存在になったはずだ。

同時に、Tさんの心の中には
NYの親友と共に、大きな穴が空いてしまったんだと思う。

ここのところ、毎年のように
何人かの人を見送ることが増えた。

特に今年は、実の母親、育てられた映画プロデューサー、
親友のパートナー、そしてO。

これから、もっともっと増えていくかも知れない。
もうそういう年齢なのだ。
僕自身も、いつ、どうなるか、わからないのだ。

人の死は重く、辛く、悲しい。
一度きりの人生を、どう悔いなく生きていくか。

旅行中、一作、一作、ブロードウェイのショウを
心ゆくまで堪能しながら、その中で多くの亡くなった人たちを思った。

いつもなら、ただ楽しいだけのショウが、
今回の僕の心の中を深く、感慨深いものにさせてくれた。

このあと、亡くなった人を弔う気持ちで
経験したショウの感想を書きたい、そう思う。
posted by みつあき at 17:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旅先での辛いできごと その1

この冬も、ちょっと長めの旅をさせてもらった。
いつもの事ながら、留守の店を守ってくれるスタッフ、
そして「いないの?」と言いながら、店で飲んでいただく
お客さんには心から感謝。

そして旅行中、約束された悲しい出来事と
予期していなかった辛い出来事がふたつあった。


今回の旅行は、いつものようにブロードウェイの新作を
観る、という目的は変わらなかったのだが、
それとは別に、今回、どうしても
行かなければならない理由があった。

ニューヨークでいつも世話になっている親友、
そのパートナーが先月急死し、
遺された友人と養子の一人娘の顔を見る、
というのが、ひとつの約束だった。


友人とはNYに到着してすぐに会いたかったのだが、
自身、やる事が山のようにあるらしく、
パートナーの葬儀に参列をする、
ということでその時に会うつもりでいた。

ところが、友人が送ってくれた住所に誤りがあり
(前日に確認をしたのだが、連絡が取れず)、
結局、僕が向かったブルックリンとはまったく真逆に場所で行われていた、
ということをあとで知った。
というわけで、葬儀の形ではパートナーにはお別れ出来ずにいた。

結局、友人とは、彼がひと月ぶりに仕事を始める、という
その前日の夜、彼らの自宅で会った。
もちろん、7歳の娘さんも一緒だった。
友人は、会ったその瞬間から、僕が帰るまで、
ほとんどずっと泣いていた。

彼のパートナーは、亡くなる一週間ほど前から
風邪のような症状だったそうだ。
ただ、その風邪がどれほど辛かったのかは、
本人が言わないタイプなので、友人はよくわからなかったと言う。

しかし、突然、自宅から娘を学校に迎えにも行けない、
というほど辛そうな連絡があり、
うちに帰ると顔色もひどい状態で、
本人が嫌がったけれど、その場で、救急車を呼んだそうだ。
ただ、そういう状態でも、
パートナーはきちんとした格好に着替え、
救急隊を待たせるほどだったらしい。

病院に行くと、かなりひどい肺炎を起こしている、と言われ、
すぐに処置が始まり、ずいぶん長い時間、パートナーは辛そうで、
まったく口も聞けない状態が続いたようだった。
ただ、その直後は顔色も良くなり、落ち着き、
友人とも娘さんとも話が出来たようだった。
思えば、それが最期の会話となったそうだ。

彼の身体は敗血症に侵され、医師からは
「かなり大変な状態だから、家族に伝えたほうが良い」と言われた。
一旦、娘さんを友人宅に預け、友人が自宅に戻ろうとした時に
「すぐに来てくれ」と病院から連絡が入ったのが、午後10時頃。

友人病室が戻った時は、彼はまったく反応をせず、
それからずっと手を握り、耳元で話しかけたりしていて、
約4時間後、翌午前2時35分に他界したようだった。

医者からは、もう少し早く病院に来ていれば、と聞かされ、
悔しくて、悔しくて仕方がなかった、友人はそう言った。


36年付き合った中で、一緒に暮らしたのがここ10年。
そのうちの8年は娘さんが来て、
生活に追われた日々だったようだった。

喧嘩もたくさんしたし、家のことや、彼女のことも任せっぱなしで、
いざパートナーが亡くなってしまったあと、どうやったらいいか、
よくこんな事やっていたなあ、と思うことばかりだったそうだ。

友人は運転しないのだが、
今後、娘さんを連れて3人で遠出をしよう、
とこの夏、新車を買ったばかりだったようだ。
そのうち、と言いながら、
結局、遠出も出来なかった、と友人は泣いた。

娘さんは、1日の生活のうち、
学校以外の8割は亡くなった彼と過ごしていたようだったが、
元来の強い性格からか、
まったく涙を見せることもなく、毅然としていて、
れが友人にはある意味、ホッとすることでもあったようだった。

友人が泣いていても「何故?そんなに泣くの?
泣いても何もいいことは起きない。幸せになれない。」
そう言っていたというから、彼女のその強さは
元々の親御さんのDNAだったのかもしれない、
そんな話をしていた。

ただ、僕が行った翌日、友人から改めてメールがあった。
娘さんは夜、寝ようとしない、宿題もしない、
夜中にお菓子を欲しがる、それについて友人が
「いい加減にしなさい。死んだダディも怒るよ」
そう怒鳴ると、彼女は初めて「ダディーは何故死んだの?」と
長い間、泣きじゃくったそうだった。

まだ8歳にもならない彼女が、精一杯頑張っていた糸が
ちょっと切れたようだった、と友人は話してくれた。
生命保険を嫌い、まったく賭けていなかったパートナー。
僕と同い歳の友人は、娘さんを大学に入れるまで
まだ10年以上の月日を一人で見ていかなければならない。
でも、頑張って前を向いて歩いていくしかない、と。

彼と別れ際、パートナーが毎日、
自分で言っていた言葉を紙に書いたモノを
彼は僕に渡してくれた。

“BE OUTSIDE THE BOX”

Do not Follow the Past.
Do not anticipate the future.
Remain in the present moment.
Leave your mind alone.
BE BE BE
posted by みつあき at 08:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする